担当:YSK / MYM (2名)
YSK
S: ヨハネの福音書 15章4節〜7節
4:わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木にとどまっていなければ、自分では実を結ぶことができないのと同じように、あなたがたもわたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。
5: わたしはぶどうの木、あなたがたは枝です。人が私にとどまり、わたしもその人にとどまっているなら、その人は多くの実を結びます。私を離れては、あなたがたは何もすることができないのです。
6:わたしにとどまっていなければ、その人は枝のように投げ捨てられて枯れます。人々がそれを集めて火に投げ込むので、燃えてしまいます。
7:あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまっているなら、何でも欲しいものを求めなさい。そうすれば、かなえられます。
O: イエス様から離れては何もすることができない私たちでも、イエス様にとどまりつづけることにより、多くの実を結び、欲しいものは何でも与えられる。
枝は木から離れてすぐに枯れるわけではない。
それまで木からたくさんの養分をもらい、蓄えているので、枝だけになっても初めは問題なく今まで通り、変わらずにいることができる。
しかし時間が経つと栄養が無くなり、やがて枯れてしまう。
A: 個人的に、イエス様が例えとして枝を用いたところがうまく私たちの関係を表していると感じた。
自分はよく自分の力でなんとかしようとする癖がある。
そしてどうしようもなくなり、神様に泣きつくのがよくあるケースだが、
枝のように木からの栄養がなければ、本来は自分の力では何もできないのに、自分の力を過信して神様から離れてしまっているのだと気付かされた。
イエス様の元にいることはとても心地いい。
しかし、いつまでもそうしてるわけにはいかず、教会から帰ってくれば、会社や学校や家事などやるべきことに否が応でも目を向けなければいけない。
また、この世の自分の趣味や好きなことにも目がいってしまう。
そんな時に、イエス様と自分とを無意識に切り離すのではなく、どんな時も神様はとどまりつづけなさいと言っている。
自分は枝で、自分だけでは、イエス様から離れては何もできないんだということを再認識し、イエス様のもとにとどまり続けることで、多くの実を結び、イエス様から相続できるはずの祝福、恵みを求めていきたい。
P: イエス様、今日デボーションを通してあなたが語ってくださったことを、またあなたが生まれ、十字架にかかられ、死なれたことにより、今私がこのようにあなたに祈り、とどまることができることを、感謝します。
どうか、あなたがこの世から私を選び出してくださったこと、私は世のものでなく、あなたのものであることを忘れずに、あなたにとどまり続けることができますように。あなたの計り知れない愛に感謝して、イエス•キリストの御名によってお祈りします。アーメン。
MYM
ヨハネ13:35互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるようになります。
クリスマス目前
集う全ての人が、神様から頂いた愛を表し合う事ができますように
愛しにくい人がいる という事はあるかもしれない
愛が伝わらない という事もあるかもしれない
相手の全部を受け入れるという事は難しいかもしれない
イラッとくる事もある
でも良い関係を築こうとする事はきっと神様の目にかなう
社会的に 大人の対応 というだけのことを超えて
私達神の子は神様からの力で愛することができるはず
そして思うのは
愛を受け取る側の責任
相手からの愛を私はちゃんと受け取ろうとしているか
神様からの愛を私はちゃんと受け取ろうとしているか
与える事も受け取る事も
そこに愛がある事を人々は気付くはず
なぜなら神は愛だから
愛には神が働いているから
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